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2017年12月26日火曜日

2017.12.3「君が代」解雇させない会学習会 

12月3日  解雇させない会の集会が行なわれました。

「ハンセン病から考える人権教育~道徳教科化のはざまで」の報告

 河原井・根津さんの「君が代」解雇をさせない会のKさんの報告です。
させない会は「君が代・日の丸」問題や教育に関わる集会や学習会・講演会などを毎年数回行っている。けれどさまざまな教育問題が年々深刻度を深めてきているのにもかかわらず、会のメンバーのほとんどが退職後何年も経つと現職の教員や教育現場とかかわる機会が少なくなっている。そんな時に、たまたま宮澤さんの実践報告を聞く機会を得て、ぜひ私たちの会でも話して欲しいとお願いして今回の学習会が開かれた。

■宮澤さんの話
小学校教員である宮澤さんは、「道徳の教科化を考える会」を立ち上げて活動しているが、他にも平和にこだわり全生園や東京大空襲や靖国神社のガイドをしたり、インクルーシブ教育に関わっていたり、東京教組の委員長もつとめている。
 始めに話された今の学校の様子を話された。パワハラで病気になる、同僚と話はできても解決しようという力はない、組合があることすら知らない若い教員、「『平和』は思想だからそれを教室に掲げるな」という管理職、等々―に、驚きの声が上がった。



■「ハンセン病と差別・人権」の実践報告
 続いて、総合的な学習の時間を30時間ほど使った「ハンセン病と差別・人権」(6年)の実践報告に入った。
〇宮澤さんは、最初の授業でなんの説明もなくハンセン病患者をモデルとしたデッサン画を子どもたちに見せて感想を出し合うことから始める。「気持ち悪い」「怖い」「妖怪」という反応から自分の中にある差別意識に気付かせるためだ。
〇次は授業から少し離れて、私たち参加者にハンセン病について、その差別の歴史(不治の病と言われ1907年かららい予防法により隔離政策が始まり、差別が1990年代まで続いたことや皇室の「慈悲」の対象となったことなど)・病気(ライ菌)の性質や治療薬のこと(ライ菌は比較的毒性が弱いことや1947年に特効薬プロミンが日本に入ってきたにもかかわらず隔離が続いたことなど)・患者の運動(プロミン獲得や予防法改正運動)に分けて簡潔に、けれど思いを込めて説明してくれた。熱く語るその言葉に私たちも授業を受けているように深く頷きながらそうだったのかと理解した。
〇そこでまた子どもたちの授業に戻る。最初のデッサン画をみた後、子どもたちも私たち同様にハンセン病について、さまざまな資料を使い、10時間程度かけて知識を得る。それからハンセン病資料館見学と回復者のお話会(半日)・全生園史跡巡り(半日)を行う。その後グループに分かれて自分たちの関心あるテーマを決め、グループ学習(4時間)・全体での発表議論(4時間)を行う。最後にまとめとして担任からのテーマ「もし目の前に、自分にとって不利益な人が現れたとき、その人の人権を守ることはできるだろうか」を議論して、最終的に「みんなが自分勝手になったり無関心になったりしないで『もし自分だったら』と考えることでみんなの人権が守れるのではないか」という話で終わった。(結論ではなく)
〇宮澤さんは、「子どもたちは優しく柔軟です。だからこそハンセン病に限らずさまざまな社会問題を提示すると驚くほど柔軟にそして真剣に考え議論してくれます。だからデリケートな問題だと取捨選択をする必要はない。ただそれによってどんな意見が出ても評価することは絶対しません。」と言って実践報告を締めくくった。



■報告を受けての質疑
質問:その後矢継ぎ早に質問が出された。始めに総合的な学習の時間についていくつもの質問。
宮澤さんの答え:
「総合的な学習の時間は、指導要領の中で定められ、年間70時間(週2時間)程度を使い、内容は各学校で自由に決めることができる。最近は伝統的な文化がはやりであり、地域のお囃子をやったり、地元の特産を育てたりすることが行われている。たいていは学年でいっしょにやる。
今回の授業は東村山の学校だったので、ハンセン病に関してはやりやすかったと思う。学年で同じ資料・時間を使って一緒にやった。伝え方は各クラスごとに少しは違ったかもしれない。普通総合的な学習のテーマとしてハンセン病のような社会的な問題を扱うことはほとんどないと思う。
けれど、靖国神社の遊就館に見学に来ていた学校があり、それには驚いた。
また、横田基地の問題をその地域で扱うのはより難しく、必ず基地で働く保護者がいたりするので好意的に扱うのでなければできないのではないか。
ハンセン病を扱ったときは、管理職も細かい内容までチェックするわけではないので、問題はなかったが、もし保護者からのクレームなどがあれば、厳しい立場に追いやられるだろう。同じテーマを違う地区の学校でやれるかどうかはその学校で、同僚たちとどういう信頼関係が結べるかにかかってくる問題だと思う。平和についてやるのが難しいのは、教員自身が忖度してしまってやらなくなっていることも一因だと思う。
担任するクラスに掲げた「平和」の文字を校長が「外せ」という前に何人もの同僚から「大丈夫ですか?」と心配された。また、僕がどんなテーマを選ぶかについてはいろんな社会問題の中で僕と子どもたちと一緒に考えたいことを選ぶ。」など色々な例を挙げながら丁寧に答えてくれた。
質問:最後になぜ教員になったのかという質問。
宮澤さんの答え:
「高校の頃、何もしたいことがなく、お金もなくたまたま東チモールにボランティアで行った。毎日井戸掘りをし、そこで銃を突きつけられ殺されそうになった体験をした。けれどそうした人が実はこちら側の人間だったことが分かったりして正義ってなんだろうと考えさせられたし、物事を多面的に見る習慣が付いたように思う。危険が迫り、2ヶ月ほどで日本に戻った。それから引っ越し屋で働きながら7~8年かけて通信教育で教員免許を取り、教員になった。」と話してくれた。

■休憩後、道徳教育と人権教育についての話に進んでいった。
宮澤さんの話: 
宮澤さんは、「道徳は個人の心の有り様がどうなのかを考えるものであり、人権は、その人個人の心の有り様はどうでもよく、その人が人として生きていけるのかを考えることである。しかも来年からは道徳が評価の対象となる。来年度以降、人権教育を道徳でやろうとすると評価をせざるを得ない。また、ハンセン病を道徳でやろうとすると個人の内面にどんどん介入していって、こういう考え方でなければいけないとなってしまう。本来人権というのは、人が人として生きていくための権利であって、それを獲得するためにさまざまな闘いがあって獲得できるもの、獲得の対象は国家であるので道徳でやってしまうと、その視点がなくなってしまう。人権的心の有り様はこうですよで終わり、人権を守るべき対象の国家の責任が全くなくなってしまい、個人の責任ばかりが問われるようになることが怖い。」と言う。

■道徳の教科について
宮澤さん:
残念ながら来年から道徳が教科化され、もう教科書もできている。文科省は評価について数値による評価はしないと言っていたが、徳目ごとに評価をすることを考えていたらしい。ところが愛国心を評価するのかという声がネット上で話題になり、そうではなく関連するいくつかの徳目を大きなまとまりで評価してもよいとなった。
内容的にはまず教科書があることが問題。教科書があると先に結論まで読めてしまう。結論が分かっていることは、どんなに授業の工夫をしても議論にならない。私が推奨するのは「中断読み」というので、結論のでる前で中断し子どもたちと議論すると、実に柔軟で合理的に考え、さまざまな意見が出る。けれどその後最後まで読むと大多数の子が教科書の考え方に共感してしまう。子どもにとって教科書は正しいことが書いてあるものだから、内面に関しての教科書は子どもの内面を支配してしまうものとなる。評価や教え方はそれなりの工夫で何とかなるところもあるが、この教科書にはそもそも内容に誤りのものも入っている。たとえば「権利と義務」を取り上げているが、「権利」は正しいことであり、「義務」の対概念ではない。家族愛を取り上げると、1行目から「みなさん全員にお父さん、お母さんがあります。」から始まる。道徳が従順な国民を作るツールでしかなくなっている。
ぜひ一度道徳の教科書の中身を読んで欲しい、危なっかしい内容ですから。来年は中学校の道徳教科書採択の年だが、どこの教科書がいいとかましだではない、基本的に教科書ができてしまえばどこもダメだ。もちろん少しでもましな教科書を選ぶことは大事だが、最終的には道徳の教科化をひっくりかえなさければいけない。中身だけを云々するのは危険である。学問体系がしっかり確立している歴史だったら対抗する教科書を作る意味があるが、学問でもない道徳の教科書は作ってはいけない。どんな教科書であれ教科書が子どもの内面に介入することに変わらないので。
道徳の教科書の大きな問題の一つは教師の発問が「ナニナニについて考えてみましょう」という形で書かれてしまっていることである。発問が決められてしまうと授業の形が決められてしまうことになる。通知表の道徳の評価は各地区で温度差がある。道徳欄ないところや年1回の評価も少数だがある。多摩事務所からは、例を挙げて提案してくる。正しい生き方を規定されるような評価が広がるとインクルーシブ教育なんてできない。武蔵村山では道徳ではなく年間45時間の徳育科という教科を作り、その中で10時間の礼法というのがある。子どもたちは柔軟で優しいのでお互いのいいところや悪いところを多面的にみることができるが、道徳や徳育で「~はいいことだ、悪いことだ」とフィルターにかけてしまうので、一面的な見方しかできなくなる恐ろしさがあると締めくくった。
 道徳の教科化の問題も具体的な内容や子どもたちとの関連で話されたのでとてもよく分かると同時に子どもたちへの影響の大きさも実感できた。次々に質問も途切れることなくぎりぎりの時間まで話を聞くことができた。これから後のことはまた考えるとして、宮澤さんのお話をできるだけ多くの方に知って欲しいと思い、長い報告となったがまとめてみた。